院長:斎藤伸雄をより知っていただくために
略歴
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横須賀市追浜出身
横須賀市立追浜中学
横須賀市立横須賀高校
神奈川歯科大学
神奈川歯科大学矯正学教室
1996年さいとう矯正歯科クリニック開業
日本矯正歯科学会認定医
日本矯正歯科学会臨床指導医
神奈川歯科大学付属横浜クリニック非常勤講師
日本臨床矯正歯科医会会員
昭和の日本が高度経済成長を突進している最中、斎藤伸雄は高度経済成長を支えた町、追浜で誕生しました。
住んでいた場所は国道16号のすぐ近く当時高速道路もない横須賀で、最も多くの交通量があった道路だと思います。
排気ガスや騒音だけでなく、半年に一度は交通事故の音が聞こえ、まさに自動車産業に囲まれた町といえるかもしれません。
しかしながら緑も多く、子供の冒険心を満足させるには十分な自然が多く残っていました。町の中心部には多くの商店や2つの映画館があり、にぎやかな町でした。
小学生時代
斎藤伸雄は小学校時代、非常に口数の少ない少年でした。
更に、運動オンチ・成績もぱっとしないというありさまで、もちろんクラスでヒーローになるわけでもなく、とても地味な存在でした。幼少期は体が弱く、病弱な体質だったらしいのですが、小学校に入学する頃には、健康だけが取り柄の、口数の少ない少年に成長しました。
それとは対照的なのが私の兄で、スポーツの勉強もできる兄で、学級委員を務めることもしばしばあるほどで、小学校当時から、そんな兄のことを尊敬していました。
小学生時代夢中になったのは、なんとロック・ミュージック!
兄の影響を受けたのですが、格好良く、あまりの圧倒的な音量、怒りを表現する音楽に男の世界を感じました(現在私はきわめて温厚な性格です)。
実をいうと私は小学校のころプロのギタリストになりたかったのです。
ただ多くの子供でも思うように「なれるわけがない」という思いがあり、本気でプロのギタリストになろうと行動に移したことはありませんでした。
父親との思い出
父親は「株式会社ハイ・テクノ」という会社の元代表取締役で、私の幼少期には久里浜近くの工場(関東化成)に勤務しておりました。事務所が電車から見ることが出来るので、私は京浜急行から見える父の事務所へ手を振るのが習慣になっていました。
父は本当に勉強熱心で、昭和40年代当時にアメリカなどにも頻繁に出張し、英語も堪能で、私はそんな父を大変誇りに思っていました。また厳しい父親というイメージとは正反対で、父は私に対して決して怒ることなく、いつもニコニコしていました(今も元気です)。
厳しく教育されたこともなく、父親の背中を見ながら私は育ちました。
小学校時代、私はよく玩具を欲しがったのですが、父はなんでも買ってくれるという、子供にとっては「優しさ溢れる素晴らしい父親」でした。
優秀な兄と
とても地味な私と好対照なのが私の兄です。
兄は勉強やスポーツも優秀で、今では日本銀行という私のような人間にとっては雲の上の世界で働いております。
兄は一言で表現すると「努力の人」です。
幼少時代はともかく、私が中学時代になると、自分はもう勉強では兄には勝てないことを自覚し、何でも出来る兄に対抗し、これなら勝てる分野を探していたように思えます。
ロックを好きになるきっかけも兄で、歯科医師になりたいと思ったのも兄の友人の影響を受けたからです。
その兄から、私は努力することの大切さを学び、今の自分があるのは兄のおかげと思っております。
中学高校時代
中学になると私は憧れであったギターを手にしました。
当時はフォーク全盛の時代、アコースティック・ギターが主流の時代でしたが、当然私が目指したものは「過激なロック・ギター」でした。中学生でしたのでロック・バンドを結成することもできずに、数人の友人とギターの練習に明けくれました。
高校時代には待望であったバンドを結成することが出来ました。
当時ジャズ・フュージョンという音楽が流行になり、私の希望であったロック・バンドではなく、少しお洒落な歌のない音楽を演奏することになりました。
ハード・ロックとは違い、繊細で集中力を要する音楽で、複雑なコード進行やメロディアスなギター・ソロを学ぶことが出来ました。
ところが肝心の勉強の方はいというと、私は高校の勉強に目的意識が持てず、まるで「尾崎 豊」状態でした。ただ試験のためだけに勉強していることにウンザリし、当然のごとく成績は最悪で、あげくのはてに教師からバカ扱いされ散々な思いをしました。
自分が悪いとはいえ当時の教師の態度には正直疑問を感じ、「このままでは俺は駄目だな」という負け犬意識が芽生え、何とか這い上がろうと意識し始めました。
相変わらずギターに夢中でしたが、本気でプロを目指している友人を見て、自分のギター技術ではプロになれるわけがないとわかっていたので、進路を決断する時が来ました。
歯医者を目指そうとした理由
進路を決断する時、ただ何となく大学に行き、社会人になって、何となく年齢を重ねていくのが理想の人生なのかもしれない、そんな気持ちが強かったのです。
でもそんな時、憧れていた兄の友人が歯科大学に進学し、そこでの勉強がとても厳しいらしいという噂が耳に入りました。
もともと手先には自身があるし、理数系は得意科目だから、今から勉強すれば間に合うかもしれない!突然歯科医師になりたいという意識が芽生えました。
ただ自分の勉強レベルでは、私立の歯学部を受験することが精一杯でしたので、母にそれを伝えました。しかしながら私立の歯学部はお金がとてもかかるという事実を初めて知ることになり、「お金を出してあげる」と母に言われた時は、一生両親を大切にしようと心に誓うことになりました。
また父が楽しく仕事をしている姿を見て、凄いなと思っていましたし尊敬もしています。
父や兄のように仕事を楽しくやりたい、すきな仕事・やりがいのある仕事をしたいと・・・・・・.父親の背中を見て私は以下のように考えました。
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大きな組織よりも小さな組織が向いている
(父親の様に自分自身の力で、組織を作りたかった) -
手先が器用だったので、それをいかせる仕事がしたい
(兄に勝てる唯一の長所) -
憧れている先輩が歯科大に入ったことも大きく影響した
(ギターを始めたのもその先輩の影響)
今思えば、ギタリストを目指す感覚で、歯科医になりたいと思ったのかもしれません。
単純に歯科医ってカッコイイ!というイメージでした。
ただし、誰かに強要されたわけでもなく、ハッキリと自分自身の意志で、歯科医になりたいという気持ちが突然湧き出しました。
それからは大学を現役合格すべく、自分なりに猛勉強を始めました。
それまでのぐうたら勉強生活を後悔しましたが、歯科医師になるために勉強しているという事実が私を突き動かし、これなら合格出来そうだと自分で確信を持てる程度にはなりました。
しかし高校の授業などの勉強を全くしていなかったので、高校の成績は、相変わらず最悪でした。歯学部志望ということを担任の教師に伝えたところ、「受かるわけがない」と担任の教師はクラス中に言い回り、その声を聞いた私は「俺をバカにしている教師を見返してやる!」と自分自身を奮い立たせたのを覚えています。
大学時代
神奈川歯科大学に入学してからは、自分の本当にやりたい勉強が出来ると意気揚々し、毎日の勉強に励みました。
そんなことは最初の学年だけで、進級するとともに勉強だけでなく遊びの方にも才能を発揮し始めました。
まずは当然のことながらバンド活動です。
大学では軽音楽部に所属し、バンドを掛け持ちしギターを続け部長にまでなりましたが、歯科医師になるのが決定していたのでギターに打ち込むのは高校時代と比べてしまうと熱意は下がっていたように思います。
ギターだけでなくオートバイを購入し日本中を旅して回りました。
さらにバイクだけでなくレーシング・カートでサーキットを走り、本気でレーサーを目指そうと思ったこともありました。
勉強も遊びも本気で取り組んでいましたね。
大学時代も終盤にさしかかり、歯科医師として歩み出さなければならない時がやってきました。
矯正専門開業医になりたいと思ったのは、卒業を目前に控えたある講義がきっかけでした。
それは名医と言われる先生が、口の中がボロボロの患者さんを綺麗に治療した症例発表で、講義そのものは勉強になりましたが、私は素直にこう思いました。
「なぜ、あそこまで放っておいたんだろう?」
「治療するのではなく、悪くならない様にできなかったのか?」
もちろん、入れ歯や歯周病・虫歯の治療は大切です。
だけど私は虫歯のない綺麗な歯並びを作る歯科医師、すなわち歯列矯正医になろうと思いました。
神奈川歯科大学矯正学教室研修医時代
大学を卒業し、付属病院の矯正科での研修時代には、素晴らしい先輩達と出会うことが出来ました。
大学生時代には、私は一人で行動することが多く、あまり人付き合いが好きではなかったのですが、矯正学教室に所属していた優秀な先生達と揉まれることによって私自身かなり変わることができました。
そして矯正歯科という分野の面白さに、必死になって勉強しました。
また先輩の先生だけでなく、素晴らしい患者さんとも知り合うことが出来ました。
実際に、卒業直後に担当させていただいた数人の患者さんとは今でも付き合いがありますし、私が矯正専門開業医になったきっかけは、矯正治療を通じて、素晴らしい出会いがあったからだと思います。
研修医時代は忙しいながらも充実した日々を送りました。
勤務医時代
研修生活を終え、矯正専門開業医での勤務医生活を踏み出しましたが、現実は理想とはほど遠いものでした。歯科医師として、学術的な技術を学びたかったのですが、単なる機械的な単純作業で、患者さんをこなしていくことだけで精一杯でした。
そこで目にしたのは、患者さんを物のように扱う医院であり、患者さんと気持ちを通じ合うことなど、とてもできない状態でした。 ある痛がっている患者さんを診療していた時です。
痛がっているので当然ゆっくり丁寧に治療を進めていましたが、勤務していた医院の院長は大きな声で「急いでくれないか!」と私とその患者さんに言いました。
患者さんの気持ちを無視したその言葉に、私は急速にその医院に対するモチベーションが無くなりました。「理想と現実は違うのかな」そんな惨めな気持ちで追浜の夜の町並みを電車の中から眺めていたのをよく覚えています。
「本当に患者さんは矯正治療をしてよかったと思っているのだろうか?」
「患者さんの思っていることを聞くことが大切なのでは?」
「治療技術だけでは、治療はうまくいかない」
これらのことを考えると、そこの医院で3年間勤務しましたが、患者さんの気持ちも理解できない歯科医にはなりたくないので、退職し開業を考えました。
確かに勤務医時代を通じてテクニックは向上しましたが、私は何か物足りず、私の尊敬する先輩の医院に無理矢理押しかけ、働かせてもらいました。
そこではスタッフや患者さんも楽しそうで、患者さんとのコミュニケーション・個性・気持ちを大切にしていました。院長の性格だけで、患者さんやスタッフもこんなにも違うのかと思いました。
私はなるべく多くの医院を見学し、以下のようなポイントに気づきました。
- いい矯正歯科医院は「笑顔・活気・誠意」がある医院である
- 患者さんの不安や悩みに、真剣に耳を貸している
- いい矯正歯科医院は、患者さんをやる気にさせるシステムができている
- 院長先生がスタッフに対して、丁寧である
- 院長先生やスタッフが患者さんとよく話をしている
- スタッフもよく教育されていて、顔がイキイキしている
- 治療技術の高い先生・スタッフは、人間性も高い
以上のことを大切に考え、1996年遂にさいとう矯正歯科クリニックを開業しました。
さいとう矯正歯科クリニック開業
自分で歯科医院を開業してまず感じたことが、本当にやりがいのある仕事だと言うことです。
第1に患者さんが素晴らしいことと、第2にスタッフにも恵まれたことです。
開業当時は歯科衛生士の友人に声をかけ、何人かの衛生士に当院で働いていただくことになりました。
ただ残念なことに、友人の衛生士は次々と出産のために退職し、新規に採用が必要になりました。
妻・由美子との結婚
結婚し、妻と共にさいとう矯正歯科クリニックで働くことが出来ました。
医院の設計なども女性からの意見を聞き、取り入れる必要があったので、相談できる身近な存在が、妻・由美子だったのです。
矯正治療を終えて
患者さんは単に歯並びが変わるだけでなく、前向きな気持ちで、努力して達成したことなど、その後の人生においても良い影響をあたえるんだな~と最近考えるようになりました。
さいとう矯正歯科クリニックでは、矯正治療をまじめに行うことができる歯科医師のみ採用を行っています。
私以外にも矯正治療をすることができる歯科医師がいるということは、私自身に病気や怪我で治療ができない状況になったとしても、診療が継続できるということは、患者さんにとっても安心だと思います。
1996年にさいとう矯正歯科クリニックを開業してから、多くの年月が過ぎ、三浦半島の矯正治療の中心的な立場となることができたと考えています。今後は私が年老いて、いつか歯科医師としての仕事を辞めなければならない時が来ても、さいとう矯正歯科クリニックから優秀な矯正歯科医を育てて、このクリニックを継続してもらうことが大事だと考えています。
このように将来のことも考慮し、歯科医師として自分だけが技術を上げていくというのではなく、自分より若い歯科医師とともに切磋琢磨して、多くの歯科医師の技術を上げていき、今後も患者さんに安心して矯正治療が受けられる「さいとう矯正歯科クリニック」を継続していきたいと考えています。